田中一村について
日本画家:田中一村(たなか いっそん)
明治41(1908)年,栃木県に生まれる。幼い頃から画才を発揮し,7歳の時,父の濔吉(号稲村、稲邨)より「米邨」の号を与えられる。
大正15年東京美術学校入学後,わずか2か月余りで中退,その後南画家として活動する。第19回青龍展に「白い花」を出品入選するが,その後中央画壇とつながりをもつことはなかった。
昭和33年50歳で単身奄美大島に移住。紬工場で染色工として働き,蓄えができたら絵を描くという生活を繰り返し,亜熱帯の植物や動物を描き続け,独特の世界をつくりあげた。
絵描きとして清貧で孤高な生き方を通した一村は,昭和52(1977)年69歳でひっそりとだれにも看取られずにその生涯を閉じた。
田中一村 年譜 | |||||||||||||
明治 | 41年 | 1908年 | 7月22日、栃木に生まれる。父・彌吉(彫刻家,号「稲村」)、母・セイ | ||||||||||
大正 | 3年 | 1914年 | 6歳 | 東京に転居する。 | |||||||||
4年 | 1915年 | 7歳 | 父から号「米邨」を与えられる。 | ||||||||||
14年 | 1925年 | 17歳 | 『全国美術家名鑑』の「超然並びに余技」の項に田中米邨の名が掲載される。 | ||||||||||
15年 | 1926年 | 18歳 | 東京美術学校日本画科に入学するが、2ヶ月で退学する。 | ||||||||||
12月、「田中米邨画伯賛奬会」が開かれる。 | |||||||||||||
昭和 | 2年 | 1927年 | 19歳 | 弟・芳雄逝去。 | |||||||||
20歳で弟・実と母を、27歳で父と弟・明を失う。 | |||||||||||||
6年 | 1931年 | 23歳 | 本道と信ずる絵≪水辺にめだか枯蓮と蕗の薹≫を描くが、賛同を得られなかった。 | ||||||||||
13年 | 1938年 | 30歳 | 親戚を頼って千葉市千葉寺に姉、妹、祖母と転居する。 | ||||||||||
22年 | 1947年 | 39歳 | 青龍展に≪白い花≫を出品し、入選。画号を「米邨」から「柳一村」に改号する。 | ||||||||||
23年 | 1948年 | 40歳 | 青龍展に≪秋晴≫を出品し落選する。参考作品≪波≫の入選を辞退する。 | ||||||||||
画号を「柳一村」から「田中一村」に改号する。 | |||||||||||||
30年 | 1955年 | 47歳 | 3月から5月、石川県「やわらぎの郷」の聖徳太子殿天井画制作のために滞在する。 | ||||||||||
6月、九州、四国、紀州を旅する。 | |||||||||||||
33年 | 1958年 | 50歳 | 12月13日、奄美大島名瀬市に到着する。与論島、沖永良部島にも足を伸ばす。 | ||||||||||
34年 | 1959年 | 51歳 | 国立療養所奄美和光園の官舎に住む。 | ||||||||||
35年 | 1960年 | 52歳 | 一時千葉に帰り襖絵を制作する。 | ||||||||||
36年 | 1961年 | 53歳 | 4月、奄美に戻り、12月、有屋の一戸建てを借りて住む。 | ||||||||||
37年 | 1962年 | 54歳 | 名瀬市大熊の紬工場で染色工として働き始める。 | ||||||||||
画業の計画「5年働いて3年描き、2年働いて個展の費用をつくり、千葉で個展を開く。」を立てる。 | |||||||||||||
40年 | 1965年 | 57歳 | 姉・喜美子逝去。 | ||||||||||
42年 | 1967年 | 59歳 | 5年働いた紬工場を辞め、3年間絵画制作に専念する。 | ||||||||||
45年 | 1970年 | 62歳 | 計画通り、再び紬工場で働く。しかし、2年後に個展は開かず制作に取り組む。 | ||||||||||
51年 | 1976年 | 68歳 | 6月下旬、畑仕事中に脳梗塞(もしくは脳溢血)で倒れ、1週間入院する。 | ||||||||||
52年 | 1977年 | 69歳 | 9月1日、和光園近くの一軒家に移る。「御殿」のようだと伝える。 | ||||||||||
9月11日、夕食の準備中に心不全で倒れ、69年の生涯を閉じる。 | |||||||||||||
54年 | 1979年 | 名瀬市中央公民館にて3日間「田中一村画伯遺作展」が開催される。 | |||||||||||
59年 | 1984年 | NHK教育テレビ「日曜美術館」で「黒潮の画譜~異端の画家・田中一村」が放映される。 | |||||||||||
平成 | 13年 | 2001年 | 9月30日田中一村記念美術館開館 |